1 蚯蚓φ ★ 2011/05/15(日) 21:57:50.06 ID:???
「対馬という島は本来、鶏林(ケリム)(新羅の別称で慶尚道(キョンサンド)を示す)に属した我が国の土地だ。
これは文書にも記録された明白な事実だ。」<朝鮮世宗実録>
去る11日、ニュデイリー・イ・スンマン研究所が主催した第3次イ・スンマンフォーラムでキム・サンフン大佐が「対馬を明白な大韓民国領土」と主張したのに続き、これを後押しする歴史的な資料が多数発見されている。
対馬は総面積が鬱陵島(ウルルンド)の約10倍に達する708平方キロだ。
釜山から49.5キロ離れ福岡との距離は138キロに達する。位置は北緯34度42分から北緯34度5分の間で経度は東経129度30分から東経129度10分に位置する。
桓壇古記高句麗王の伝記は「九州と対馬は三韓が分割して治めた場所で、本来、倭人が世居した所ではなく」と「対馬は三加羅に分かれたので佐護加羅という新羅に属し、仁位加羅という高句麗に、鶏知加羅いう百済に属した」と記述している。
三国時代初期には対馬を津島と呼んだという記録もある。
また、高麗恭愍王の時は対馬州は高麗から地方武官職の万戸位を受けたことが記録されている。
朝鮮初期、申叔舟(シン・スクチュシ)など17人が通信使として日本旅行で残した「海行摠載」には「三国時代にすでに日本に住む倭人たちは対馬を外国と見たし、対馬の人々は自ら半朝鮮人で呼んだ」と記録されている。
また、朝鮮世宗実録には「対馬という島は本来、鶏林に属した我が国の土地だ。
これは文書にも記録された明白な事実だ。
ただし土地がとても狭いうえに海の真ん中あって往来が不便な関係で国民が入って生活していないだけだ。」と記録している。
1719年朝鮮通信使として日本を訪問した申維翰(シン・ユハン)は「海遊録」で「対馬は朝鮮の一村に過ぎない。
太守が朝鮮王室から印鑑を貰ったし朝廷の禄を食んで多様なことに命を求めて受けたから我が国について藩臣の義理がある」と話した。
このように対馬は明白な朝鮮領土と認識されるが、日本が近代国家再編過程で日本領土に編入した。
当時、朝鮮は鎖国政策で列強の開放要求に対抗してこのような国際情勢に積極的に対処できず、対馬の日本支配を防ぐことができなかった。
これと関連して各界では「歴史的な根拠が明白なだけに、対馬について私たちの土地という主張を積極的に広げる必要がある」と声を高めている。
ソース:ニューデイリー(韓国語) 世宗実録「対馬は私たち慶尚道の土地だ」
http://www.newdaily.co.kr/news/article.html?no=78888